伝統的建造物の再生による

まちづくりの新たな一歩。

Interview 12

千年先も、いつくしむ。宮島

伝統的建造物の再生による
まちづくりの新たな一歩。

Interview 12

神宿る御神体として、かつての宮島に人は住んでいなかったが、その後、厳島神社の南西側には神官や上級社家を中心に町がつくられ、北東側には港町が栄えた。
宮島の発展は常に厳島神社と共にあり、島に伝わる様々な伝統文化の根底には、島に暮らす人々の深い信仰心が溶け込んでいる。宮島の町並みは、そこに暮らす人々の営みによって形づくられ、さらにそこから人々の暮らしぶりを感じることができ、その息づかいまでが聞こえてくるようだ。
今回取材したのは、北東側、令和3年に国の選定を受けた「重要伝統的建造物群保存地区」のメイン通りである「町家通り」。表参道商店街とは一変して、静かな暮らしの気配が漂い、趣がある町並みを散策する観光客も見られる。この通りに長年暮らす上垣内(かみごうち)さんと吉田さんに、昔と今の町の様子や生活の違い、そして、観光客や地域住民に開かれた拠点になるよう廿日市市が整備を進める「旧若狹家」の保存・活用を含めたまちづくりへの期待などを伺った。

変化していく町並みの発展を願って

町家通りの西の端、五重塔の麓にある土産物店「趣(おもむき)」で、今日も道行く人たちに笑顔を向ける上垣内ヨシコさんは、昭和34年に宮島へ嫁ぎ、この町で暮らす。
「初めは毛糸店と編み物教室を営んでいましたが、町家通りが注目され始めた頃に現在の「趣」に変えました。昭和30年代のこの通りは未舗装のデコボコ道でね、水道も整備されてなくて、隣の誓真釣井(せいしんつるい)の水を汲んで使っていました」と懐かしそうに話す。
当時から近所とのつながりは深く、町内会や子ども会の活動も盛んだったという。特に心に残っているのは大がかりな葬儀。「お坊さんが八ヶ寺ほどから来られるんですよ。町内会の人はまかないなどの手伝いで2日間大忙し。最後は対岸の火葬場で故人を弔うために、桟橋まで長い行列を作ってお見送りしていました」
かつては一大行事だった葬儀も、人口減少の影響で簡素になり、今では家族葬が主流に。人づきあいが薄れてきたことを、上垣内さんは寂しく感じている。ただ、十年一昔だった町の変化を、今では1年、半年のスピードで実感しているともいう。「若い人たちの行動力は素晴らしいです。宮島の未来を考えていろんな活動しておられるから、何も心配していません。安心してバトンタッチするだけです」
整備中の「旧若狹家」を皮切りに、町家通り全体の町並み保存・整備が進むことも願っている。「昭和の高度成長期に改装した家が多いから、伝統的な町並みという統一感があまりなくなってきているのが残念。せっかく歴史や文化が残る趣のある町ですから、宮島らしい景観を整えて長く守っていってもらいたいです」

「町家通りの人たちと助け合って生きてきました」と上垣内ヨシコさん。観光客からの「また来るね」という言葉を励みに店先に立つ。
「町家通りの人たちと助け合って生きてきました」と上垣内ヨシコさん。
観光客からの「また来るね」という言葉を励みに店先に立つ。

伝統的建造物で暮らす昔と今

建物全体から堅牢さが伝わってくる吉田家。建物内部には現役の井戸もある。
建物全体から堅牢さが伝わってくる吉田家。建物内部には現役の井戸もある。

土産物店「趣」から北東に300メートルほど町家通りを歩いたところに建つのは、出格子の美しい表構えに町家風情が色濃く残る「吉田家」だ。江戸時代中期に建築されたと推定され、生前、家の主だった宏喜さんをはじめ先祖代々守り継がれたこの建物は、昔は宮島に働きに来た職人の世話所として使われていたという。結婚後の約60年に渡って宮島に暮らす吉田宣子さんと、幼少期から高校卒業までを過ごし、近い将来の帰郷を考えているご子息の秀和さんが、暮らしの昔と今を語ってくれた。
「移住して間もない頃の町家通りは、人の往来が多くてにぎやかでしたね。まだ車も少なくて、お年寄りが縁台で楽しそうにおしゃべりしていた光景を思い出します」と宣子さんは話す。当時は町の行事なども多く、秀和さんは「子ども会のキャンプがすごく楽しみでした」と振り返る。
人口減少やコロナ禍の影響で、昔と比べると地域の人との交流は少なくなった。しかし、代わりに観光客は増加。「表参道が混んでくると、人がどんどんこちらに流れてきます。歴史ある建物なので、興味本位で勝手に家に入ってくる人もいてね……」と宣子さんは苦笑する。そんな事情ゆえに「旧若狹家」の完成には大きな期待を寄せる。「宮島町家の内部を自由に見られる建物がオープンする。これは、宮島の伝統的な造りの家で生活している私たちにとって大きいです。それに、町の人も気軽に集まれる場所を欲しがっています。そういう拠点としても使えるようになればいいですね」

「旧若狹家が宮島町家の独特な構造・文化などを学べる場になれば」と話す吉田宣子さんと秀和さん。
町家通りは住民の生活空間でもあるので、最低限の配慮も求めている。
現存する宮島町家の中でも数棟しか残っていない吉田家のオウエ
吉田家のオウエ。オウエは宮島町家の特徴的な空間で、現在も残っているものは数棟しかない

伝統的な宮島の町家に息を吹き込む

現在の旧若狹家の外観
現在の旧若狹家の外観(復原前)
旧若狹家現状平面図
旧若狹家現状平面図(伝統的建造物(旧若狹家)保存活用計画 令和7年3月 廿日市市 抜粋)

吉田家の横にたたずむのは、廿日市市が令和6年から所有する「旧若狹家」だ。
「旧若狹家」は江戸時代初期に建てられたと推定される、現存する宮島町家の中でもっとも築年数が古い建物の一つ。昭和期に外壁や屋根勾配などに手が加えられ、一見すると町家建築ということが分かりにくいが、足を踏み入れると宮島町家の特徴である「ミセ」「オウエ」「ザシキ」の間取りや中庭が見られる。
「旧若狹家」の整備を担当する廿日市市職員は「オウエの吹き抜け空間や神棚などを通じて、本物しか持ち得ない臨場感や雰囲気を感じてほしい。先人たちの“生活の中に信仰が息づく暮らしぶり”を、多くの地域住民や観光客に伝える場とし、古から続く唯一無二の宮島の日常やかつての生業空間を次代に継承したい」と未来への願いをにじませる。
廿日市市は令和10年度末オープンを目指し、地域住民との対話を重ねながら整備を進めている。

画像手前から奥へとミセ、オウエ、ザシキと呼ばれる部屋が並ぶ。
画像手前から奥へとミセ、オウエ、ザシキと呼ばれる部屋が並ぶ。
ミセ:本来は店舗か仕事場として設けられたが、その後、土間としている町家も多い
 オウエ:神棚や仏壇が設置され、祖霊と関係するとされる神聖な空間
 ザシキ:裏庭に面し、日常生活に使われる部屋
改修工事中の若狹家に残る「オウエ」。神棚の上部は吹き抜けの空間。
旧若狹家に残る「オウエ」。神棚の上部は吹き抜けの空間。
旧若狹家に残る「オウエ」。神棚の上部は吹き抜けの空間。

旧若狹家や吉田家に共通し、先祖代々受け継がれてきた宮島町家の造りから見えてくるのは、日常に溶け込んだ厳島神社への信仰、暮らしの中に息づいてきた宮島ならではの営みだ。
そして、上垣内さんの「町家通りの人たちと助け合って生きてきました」という言葉からも、そこで暮らす人々が支え合いながら、この町の文化を育んできたことが伝わってくる。
江戸時代初期の雰囲気を感じさせる町家のたたずまいも、信仰も、そこに暮らす人と人とのつながりが生き続けることで、島の歴史は今も脈々とその姿をとどめている。こうした日々の営みこそが、 宮島の普遍的な価値を形づくる文化の一部であり、次の世代へとつないでいくために欠かすことのできない大切なエッセンスなのだろう。