にぎわいと、昔ながらの景色。
宮島の二つの魅力を守りゆく。
観光産業の健全な発展と地域振興、国際親善を目的に設立された「一般社団法人 宮島観光協会」。お土産や飲食などで観光客をもてなし、にぎわいを創出する「宮島表参道商店街」。宮島の観光を支える二つの団体の方にお話を伺った。
海と緑が映える宮島。
変わらない景観が好き。
宮島に生まれ、ずっと宮島で暮らす上野さん。ご自身の子ども時代は、商店街や厳島神社のそばを通って通学していたそうだ。その当時の宮島の来島者数は約100万人。「おじいちゃんとおばあちゃんがこたつに入って『いらっしゃい』と迎えてくれるようなのんびりとした観光地でした」
その後、高度成長期を迎え、マイカーの普及や新幹線の開通などによって、旅行が盛んになっていった。「私が観光協会に入った30年前は、来島者が200万人ぐらいで、ぼちぼち観光客が増えはじめた頃でした」
PRキャラバンやイベントといった観光誘致のかいもあり、宮島は少しずつ認知されていったそうだ。1996年にユネスコの世界文化遺産に登録されると、一気に観光客が増加。2019年には、450万人を突破している。
「実は、宮島の魅力の一つが、船で渡る10分間なんですよ。乗り物を降りたらすぐに観光地ではなく、宮島は必ず船に乗り換えます。非日常へ渡る期待感が、ワクワクさせてくれるのです。加えて私は、宮島の海の青と山の緑が魅力だと思います。とりわけ雨上がりの山は緑が輝き、海に映えます。物心ついた頃から目にしてきた風景ですが、いつの時代もその美しさは色あせません」
観光で栄えながらも、
にぎやかさと癒やしの共存を。
「2023年に入って、観光客がコロナ禍前を超える勢いで増えています。喜ばしいことですが、満足度の維持が求められると感じています。お客さまの目的が多様化して、にぎわいの中での食べ歩きを楽しむ方がいれば、癒やしを求めて来られる方もいます。人の多さに幻滅されぬように、お客さまをおもてなしすることが大切になっています」
生まれ育った宮島が、どのように変わってきたかを尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「一軒一軒の店構えなどは変わりましたが、大きくは変わっていません。景観は守られていますし、これから100年たっても宮島の町並みは変わらないと思います。神社の朱色と山の緑、海の青さ。歴史的建造物と自然のコントラスト。潮が引いた時と満ちた時に変わる景色を楽しみ、御笠ノ浜から沈む夕日を見て、夜はライトアップを満喫。早朝に嚴島神社を参拝し、空気が凛と張り詰めた時間にのんびりと散策する。これこそが、私の一番好きな、変わらない宮島なんです」
無理をせず、できる範囲で、
できるだけのことを。
「商店街があるこの場所は、江戸時代後期に埋め立てられてできています。昭和の初めに海岸沿いに道路が造られた際、観光客をこの通りへ呼び戻すためにできたのが、商店街の組合だと言われています。当時の名称は『宮島本通り商店街』で、『宮島表参道商店街』と名前を変えたのは1980年代前半頃です。新しい宮島のマップを作る際に、原宿の表参道をイメージして付けたのです」と木村さんは懐かしむ。
「商店街の活性化には、お互いが助け合う気持ちが欠かせません。商店街の軒に付けられている日よけもその一つなんですよ」と木村さん。各店舗へ差す直射日光を遮るためだけではなく、日よけが風を遮ることで、お客さまの暑さや寒さを和らげるように、店同士が協力し設置しているという。
「通りに防犯灯を設置した際は、商店街だけでは資金が足りず、設置していただいた会社さんや行政の協力に支えられました。管絃祭では、しゃもじアートのイベントを実施していますが、宮島のしゃもじ産業を助ける意味もあります。全て、宮島のためという相互扶助の精神に基づいています。でも続かないと意味がありません。無理をせずできる範囲で、できるだけのことをやっています」
災害への備えも。
美しい宮島と人々を守るために。
自主防災会の会長も兼ねている木村さんは、災害に対する思い入れも強い。商店街には、食事処や菓子製造店など火を使う商店が多いため、万一火事が起きても延焼を食い止めるように気を配っているという。
「店舗が建て込み、壁が共通の店もあるので、延焼防止は何よりの課題です。そのため、建物などが変わったら、小高い丘などに登って、消火や避難の経路を確認しておくんですよ」
津波から観光客を守るためにも、できることはあるそうだ。例えば外国人のために、非常口のマークの下に「Tsunami」と書いた標識を商店街の角地の店舗に預けている。もし津波が来そうになったら、この標識を持ち声をかけながら、高台へ誘導することを申し合わせている。
「時代が変わっても、美しい町並みや自然、伝統、助け合いの心は、変わらず残してほしいですね。私は、菓子専門学校進学と修行のため、生まれ育った宮島を5年間離れていた時がありました。松明(たいまつ)づくりに参加しない年末は、寂しくてたまらなかったんですよ。私の心にも残っている宮島の原風景が、脈々と受け継がれることを願っています」