厳島神社を支えてきた
現在も佇む神職の屋敷。
厳島神社の裏手から大聖院に続く緩やかな坂道「滝小路(たきのこうじ)」。かつて神職の居住地とされたこの通りに、1978年に国の重要文化財に指定された「林家(はやしけ)住宅」が建つ。建物は通称「上卿(しょうけい)屋敷」と呼ばれる。戸主の林宣親さん、出先(でさき)洋一さん・泰子さん、妹の妙子さんで立ち上げた林家住宅保存会によって大切に維持されている。戦国の動乱に翻弄され、江戸時代には主家の交代を余儀なくされた屋敷の歴史や、文化財継承者としての心持ちなどを伺った。
厳島神社創建までさかのぼる
林家のルーツ。
表門に続く石段を登りかけたところで、くぐり戸を開けて出先洋一さん・泰子さんが迎えてくれた。出先泰子さんの旧姓は林。「林家住宅」の直系の子孫だ。(林宣親さんは、泰子さんの兄にあたる)厳島神社には、古くから神職を司ってきた棚守(たなもり)、上卿(しょうけい)、祝師(ものもうし)という高位の「宮島三家」があるが、林家はこの中の「上卿職」の家柄にあたる。
「上卿というのは、天皇から派遣された勅使をお迎えし、神事を執り行う役職です。厳島神社では代参の任務も担っていましたし、江戸時代までは大元神社の祭主も兼ねていました」と洋一さん。大元神社では1月に「百手祭(ももてさい)」という祭事がある。この祭りで神事を執行し、200本の弓を射る役目を担ったのが、代々の当主だという。
林家の始祖にあたるのは、大山祇命(おおやまつみのみこと)を遠祖とする佐伯鞍職(さえきのくらもと)。593年に厳島神社を創建したと伝わる人物だ。以後、厳島神社の神主職(かんぬししき)は佐伯氏が世襲していたが、平氏が滅び鎌倉幕府の命により藤原氏の時代を迎える。広島に赴いた御家人、藤原親実(ちかざね)を神主職に据え、安芸国守護にも任命。親実の二男が上卿の養子となり、神主代上卿職となる。
藤原氏が廿日市市の桜尾城そばに居を構えていた戦国時代(1541年)には、大内義隆の攻撃を受けた藤原氏が城に火を放って自刃。桜尾城と共にそばにあった上卿の屋敷が全焼し、上卿に関する貴重な書物などを焼失してしまう。その後、領土の一部だった大塚地区(広島市安佐南区)に転居。「宮島に定住したのは、毛利元就が中国地方を統一した時代です。それまでは、神事のたびに対岸から船で来島していたようです」と洋一さんは話す。
危機を乗り越え、
継承してきた上卿職。
「上卿」は奈良時代から存在する由緒ある役職で、林家は代々「神主代(かんぬしだい)上卿」職を務めてきた。
「神主代とは神主の代理のこと。鎌倉時代から戦国時代にかけて、神主家は自分の領土を守るために、武装化して軍事活動に力を入れ始めたのです。そこで、神事・祭事を執り行うようになったと思われます」
また、氏が「林」になった始まりは、江戸時代中期に上卿職を務めていた「三宅(屯倉)」家の血筋が途絶える窮地に陥ったからだという。当時の広島藩主・浅野氏は、厳島神社の事務方「検校(けんぎょう)職」として、熱田神宮の社家である林朝臣守行(はやしのあそんもりゆき)氏を呼び寄せ、後に32代目の上卿職に任命。これ以降、家名は「林」に改められ、40代目の今日まで続いている。
「37代目にあたる私の曽祖父は、天保12年(1841年)生後10カ月で上卿職を継いだんです」と泰子さんは資料をたどりながら話す。生まれて間もなく父親を亡くし、その兄弟たちはそれぞれ大元神社の祭主、厳島神社の検校職に就いていたため、上卿職を途切れさせないための苦しい選択だったようだ。
話を伺ううちに、上卿屋敷には何度も危機的な状況が訪れたことが分かる。桜尾城そばの屋敷が全焼した時も、三宅氏が途絶えて林氏を迎えた時も、1歳に満たない37代目が跡を継いだ時も。困難を乗り越えて家を存続させてきた重みを、今強く実感しているそうだ。「結婚して宮島を出て、実は40年戻っていなかった屋敷なんです。その間に父が急死したので、歴史の詳細を聞くこともできなかった。そこで、古文書を読み始めたんですが、その過程の中で、先祖から譲り受けたものの価値にあらためて気付きました」
建築年ではなく上卿職の氏が三宅から林に替わった時のものと推測される。
島民も来島者も
この地を愛する気持ちで。
桜尾城そばの屋敷が焼失した1541年から、林氏が上卿職に就いた1700年代初めまでの詳細な記録は、林家にほとんど残されていない。その他にも、断片的な出来事しか分からない時代がある。しかし、それらも含めて「歴史は伝えてゆかないと消えてしまうもの」とお二人は話す。だからこそ、興味がある人たちには予約制で屋敷を公開し、希望があれば案内や説明も行っている。
上卿屋敷の特徴的な意匠として紹介していただいたのは、表門の近く、白壁の一角にしつらえられた「簓子下見(ささらこしたみ)」と呼ばれる出窓だ。高台に建つ林家から、祭事などで使われる厳島神社の「反橋(そりばし)」はとても見通しが良い。そのため、正月や「初申祭(はつさるのまつり)」の神事の折には、この窓から一行を見守ったり、他の神職と準備の合図を送りあったりしていたという。
それ一つとっても、上卿屋敷の観光資源としての貴重さが感じられるが、「観光のために屋敷を活用することと、国の重要文化財として保存することには相反する面がある気がします」と泰子さんは話す。
見学を予約制にするきっかけとなったのは、観光客のマナー問題。一方で、屋敷を維持・管理するための国や自治体からの補助は、改修など限定的で、日々の費用も多くが持ち出しになっている。人手も限られているため、観光客一人一人に対応することは難しく、観光に活用すればよいという状況ではない。
「訪れる人も、宮島を愛する気持ちで観光してほしい。この島への愛が深ければ、ごみのポイ捨てなどもなくなると思うからです。もちろん宮島に住んでいるわれわれも、故郷を愛する思いをずっと持ち続けなければと思っています」
明治維新以降の日本は宗教の形が変わり、神職の在り方も変化した。しかし、林家住宅には丁寧に手入れされた屋敷と、上卿職に関わる貴重な資料が残る。それらの歴史的・文化的な価値は、40代以上続く上卿の家の子孫として、代々今日まで地道に続けてきたさまざまな努力の上にある。
