戦国時代から続く悠久の“祈り”。

静かなる哀調の舞「宮島踊」

Interview 04

千年先も、いつくしむ。宮島

戦国時代から続く悠久の“祈り”。
静かなる哀調の舞「宮島踊」

Interview 04

毎年8月17日と18日の両日、厳島神社の参道「御笠浜(みかさのはま)」を舞台に、夕刻から催される「宮島踊(みやじまおどり)」。500年以上受け継がれてきた行事で、2007(平成19)年に、廿日市市の無形民俗文化財に指定されている。

「宮島踊」の始まりは、戦国時代。
厳島神社の神官、棚守房顕が書き残した「棚守房顕覚書」によると、およそ500年前、宮島に乱入して数々の乱暴を働いた伊予の国の武士たちが、帰路の暴風雨で溺死したという。

江戸時代の芸藩通志などによるとこの事件後、武士の亡霊が渡海の船に災いをもたらすようになったため、亡き人の霊を慰める念仏供養が行われていた。

七月十六日、十七日、両夜、東町の浜にて多賀江念仏といふ事あり。是は昔伊予国北条の地頭多賀江兵衛某といへる武士、当国に乱入し争ひのことあり。或る時多賀江、大宮の浜の中に兵船をならべ、神前に舞踏ありしを見て、兵等、様々悪口放逸なりしかば、風浪俄に起こり、一舟の者皆溺死す。其の遊魂、渡海の舟に障をなしけれは、七月十六日、彼霊を弔ふとて、六斎念仏を始しといふ。
七月十六日、十七日、両夜、東町の浜にて多賀江念仏といふ事あり。是は昔伊予国北条の地頭多賀江兵衛某といへる武士、当国に乱入し争ひのことあり。或る時多賀江、大宮の浜の中に兵船をならべ、神前に舞踏ありしを見て、兵等、様々悪口放逸なりしかば、風浪俄に起こり、一舟の者皆溺死す。其の遊魂、渡海の舟に障をなしけれは、七月十六日、彼霊を弔ふとて、六斎念仏を始しといふ。
安芸国広島藩の地誌で1825(文政8)年完成の『芸藩通志』より

そのため、現代のいわゆる「盆踊り」とは趣を異にする。
そこから始まった念仏踊りが宮島踊の起源とされている。

編笠を目深にかぶって顔を隠し、上着は黒紋付き。空気が凜とする中、左右交互に手を上げ下げしながら天と地を指し、すり足で進んではゆったりと回転する。踊りは、舞楽の影響を受けたという説があり、ゆったりとしたリズムですこぶる優雅だが、絶えず手と足が動いている。繰り返し手を交差させる動作は、拝む姿を現しているようだ。 手拍子のない静かな踊りを先導するのは、哀調を帯びた「宮島八景」の唄と三味線、夕暮れの浜に響く太鼓の音――。生演奏と優美な舞に、外国人の観光客も固唾をのんで見入る。

弔いのために始まった、
唯一無二の「宮島踊」。

貴重な芸能の伝承に努める「宮島芸能保存会」の方々にお話を聞いた。

宮島芸能保存会(左から)山村ゆう子さん、会長 岡田好江さん、蒲田知美さん
宮島芸能保存会(左から)山村ゆう子さん、会長 岡田好江さん、蒲田知美さん

歴史ある行事の文化的な価値を守り後世に残すため、1963(昭和38)年に「宮島芸能保存会」が発足。現在、宮島で生まれ育った3代目会長の岡田好江さんを中心に約10名が活動している。「踊りと三味線、太鼓、唄を残していくために、役まわりをみんなが兼務しています。昔は男性も多かったんですけどね、今は半分に満たないほどになりました」と岡田さん。伝統的な芸事は一朝一夕に上達するものではなく、会員の高齢化も進む。宮島踊を維持し、広めていく活動は大変だという。

昭和51年3月発行の冊子『宮島』 宮島芸能保存会の初代会長らによる踊りが掲載されている
昭和51年3月発行の冊子『宮島』
宮島芸能保存会の初代会長らによる踊りが掲載されている
編み笠を目深にかぶって顔を隠し、上着は黒紋付き。左右交互に手を上げ下げしながら、すり足で進んではゆったりと回転する。

記憶の奥の三味線の音、
体に染みついた所作。

今日まで受け継がれてきた「宮島踊」の背景には、実は地元の学校との連携がある。50年くらい前から授業に取り入れられ、島民のほとんどは子どもの時に習った経験があるのだという。岡田さん自身、故郷を10年ほど離れていたそうだが、宮島に戻って迎えた8月17日の夕べ、三味線の音に引き寄せられるように浜辺へ。「記憶にある踊りなので体がおのずと動いて……いつの間にか、宮島芸能保存会の会長になっていましたね(笑)」

会長 岡田好江さん

踊りと太鼓を指導する蒲田知美(かまださとみ)さんも宮島生まれ。やはりUターンで故郷に戻り、体に染みついた宮島踊を観光客などに披露するうちに、自然な流れで宮島芸能保存会のメンバーに加わったという。

踊りと太鼓の指導、会計を兼務する蒲田知美(かまださとみ)さん

一方、三味線担当の山村ゆう子さんは、商工会の女性部長として宮島芸能保存会に関わるようになった。
「私は本番中、櫓(やぐら)の上で三味線を弾くから、踊りの様子がよく見えます。すり足のサササッという音がそろった瞬間、あぁきれいだなと感動するんですよ」
宮島学園(小中一貫校)に出向いて、授業も手伝うようになった。以来、個々の子どもに合わせた指導や譜面の作り替えなどに尽力している。5年生が唄、6年生が三味線、踊りは全員で行う。

三味線担当の山村ゆう子さん

人々の生活が土台にあり、
伝統行事がある。

「宮島に生まれ育った人にとっては当たり前でも、他県から来た私からすると、一年を通して何らかの祭事があったり、小学校で三味線を習ったりするのは、それ自体がすごいこと」と山村さんは言う。同様に蒲田さんも、「宮島を出てみて初めて、この島での生活の一部が特有のものだったこと、宮島の暮らしが、旧暦に合わせたいろんな伝統行事と結び付いていたことを再認識しました」と話す。「最近は宮島の変化のスピードが速くて、趣が削られているような気がします」と岡田さん。

宮島で生活する人々がいるからこそ、宮島ならではの行事が生まれ、文化として伝承されてきた。その文化が途絶えると宮島は宮島でなくなってしまう。だからこそ「この島に息づいた芸能を大事にしていきたい」と、宮島芸能保存会の皆さんは口をそろえる。

黒紋付き衣装で、手を左右交互にゆっくりと上げ下げするのが宮島踊
黒紋付き衣装で、手を左右交互にゆっくりと上げ下げするのが宮島踊
衣装も異なる「すずめ踊り」は、明治時代に加わった新しい踊り。宮島踊と一緒に踊られる
衣装も異なる「すずめ踊り」は、宮島踊の手替わりとして明治時代に始まった踊り。
宮島踊と一緒に踊られる。
こちらも100年以上の歴史があり、宮島芸能保存会が引き継ぎ残している。
メモが書き込まれた手作りの楽譜
メモが書き込まれた手作りの楽譜

戦国時代から続く
“祈りの舞”を後世に。

500年前の戦国時代から、この島で踊り継がれてきたことに希有の価値があり、踊り手も歌い手も弾き手も、その歴史の深さや美しさを実感しながら受け継いできた。島内の学校では授業の一環として宮島踊の練習を取り⼊れてもらい、小中学生たちに踊りの楽しさや誇りを持ってもらえるよう、宮島芸能保存会が指導を行っている。子どもたちには、その歴史的価値や思いも含めて伝えている。

また宮島芸能保存会のメンバーは高齢化が進んでおり、踊り手や演奏者が不足。存続の危機感を抱えながら活動している。それでも「素晴らしい伝統芸能を何とか残していきたいんです」と岡田さんは意気込みを語る。「まずは子どもたちへの指導を継続していくこと。もちろん島外の方や観光客にもPRして、宮島踊に参加してほしい。活動を続けることが大事です。それがいつか、何らかの形で実を結ぶと思っています」

あいさつに立つ岡田さん
あいさつに立つ岡田さん
  • 宮島芸能保存会
  • 1963(昭和38)年6月25日に、宮島踊の継承と保存を目的に発足。
    宮島芸能保存会が開催する「宮島踊りの夕べ」などのイベントでは、一般の参加者も輪に加わって一緒に踊ることができる。会員拡大に向け、興味のある人からの問い合わせを随時受け付けている。
  • 宮島芸能保存会事務局
  • TEL 0829-44-0757(清盛茶屋)
  • Facebookページ