人を育て、技術を託し、
平安時代を後世につなぐ。
神社や仏閣など日本古来の木造建築物を手掛ける宮大工。多くの建造物が国宝・重要文化財に指定されている嚴島神社には、「木組み」と呼ばれる伝統工法で修繕・補修などに携わる、専属の宮大工が常駐する。腕を見込まれ34歳の若さで嚴島神社の棟梁に就任し、以来18年宮島で暮らす三舩慎悟(みふねしんご)さんに、棟梁としての仕事、後進育成への思いなどを伺った。
父親の血筋を継ぎ、
腕一本の宮大工に
嚴島神社社殿から徒歩数分、使い込まれた木製の表札がかかる「嚴島神社工務所」で、棟梁の三舩さんが迎えてくれた。三舩さんの実家は福岡県糟屋郡(かすやぐん)のお寺の家系。寺とつながりが深い「宮大工」として働く、父親の姿を見て育った。
「小学校の帰りに現場で汗を流す父を見て、純粋にかっこいいと思いました。ものづくりに興味があったし、自然と同じ職を目指すようになったんです」
中学生になると現場に同行して掃除などを手伝い、高校卒業後1年ほど、隣町の工務店で下働きをして本格的に弟子入りした。
九州各地の仕事を手掛けるうちに人脈が広がり、東大寺お抱えの大工に声をかけられて奈良の工務店に就職。永平寺(えいへいじ)や弘明寺(ぐみょうじ)など全国の現場に赴いた。その後も人との縁に恵まれ、嚴島神社に出入りしていた、大阪の社寺建築の会社に転職。
「3年経ったころ、親方から嚴島神社の棟梁を打診されたんです。正直もっと多くの仕事を経験したかったので、3回断ったんです。でも2週間に1回しか家に帰らない生活に耐えられなくなっていた妻が、あっさり承諾しました」
こうして全国でも珍しい、34歳の若い棟梁が嚴島神社を支えることになった。
「宮島は山や海の自然が素晴らしく、子どもがのびのびと育ちました」と三舩さん。家族も島での生活が大好きだという。
簡素で強い嚴島神社。
そこに先人の工夫がある。
神社や寺の建築の特徴は、木材をはめ合わせて骨組みを作る「木組み工法」。工具には、のみや鉋(かんな)、聖徳太子が中国から持ち帰ったとされるL字型の定規・指矩(さしがね)などが用いられ、長さは今でも尺寸で表す。木材の反りを考慮して手作業で加工を施すなど、宮大工には経験に基づいた技術や知識が必要だ。
「嚴島神社は平安時代に建てられた寝殿造で、装飾を重視したそれ以降の建物と比べると、造りそのものは簡素なんです。でも大きくて強く、理にかなった組み方がされている。シンプルだから逆に素晴らしい。800年以上も海上社殿を維持できているのは、先人の努力の賜物です」と三舩さん。
しかし、海を敷地に取り込んでいる構造ゆえに、難しさを感じる相手も海なのだとか。7~8時間連続して作業ができる引き潮の日は月に8日だけ。社殿の足元周りの工事をその日に集中させ、他の日も潮の満ち引きに合わせて工程を微調整する。加えて、神事や結婚式などの行事を妨げてもならない。嚴島神社の棟梁ならではの苦労が多々あるという。
宮大工を増やすために、
自ら発信を続ける。
宮島に拠点を移して18年、三舩さんが寂しく思うのは「嚴島神社を維持してきた宮大工の存在、島内の工務所さえ知らない人が多いこと」だと話す。さらに、建築業界全体の人材不足にも危機感を抱く。そこで、自身が前面に出て、宮大工の仕事・魅力を発信していくことを決心。インスタグラム(@sima5rira_miyada19)を開設し、技術専門学校での出前授業などを行ううちに、海外からのインターンシップも決まった。日本建築に関心を寄せる海外の大工職人、パオロさん・ローマンさんだ。
取材の日、二人はビザを利用してフランスから来日中だった。「何でも経験させてくれる三舩さんの指導は、とても分かりやすい」「フランスでは押して使う鉋(かんな)を日本では引く。工具の使い方ひとつ取っても新鮮です」と、来日にあたり1年間勉強した日本語で話してくれた。
また、三舩さんと8年間ともに作業してきた日野幹稔(ひのみきとし)さんは、将来的な後継者として目されている。「嚴島神社の棟梁は誰もができることじゃない。誇りをもって取り組みたいです」と日野さんは静かな意気込みをみせる。
宮大工は、一人前になるまでに最低10年かかるといわれる。技術を極めればきりがないと三舩さんは語る。
「私だって、いまだに分からないことがあります。でも嚴島神社はもちろん、全国の社寺を守っていくために、宮大工の技術は不可欠です。今日まで続いてきた日本の伝統技法を途絶えさせてはなりません。技術継承に力を注ぐ、それが今の生きがいです」